美容業界で働きたい。骨気(コルギ)サロンをオープンしたい。
インターナショナルコルギニスト協会はそんな『本気』に応える協会です。
私はもともとおせっかい焼の子供でした。自分のことより、他人が気になる・・・そんな子供でしたので、長女として幼いながらも、弟や妹のお世話をよくした子供だったようです。
両親ともに肩こりや腰痛持ちであったため、年末年始は必ず自宅にマッサージ師のオジサンが訪れ、子供ながらにマッサージを受けて育ちました。
私が中学生だった時のある夜、自宅でテレビを見ながら夕食をとっていると、親戚の店から一大事だと連絡が入りました。
家を飛び出て、お店に向かうと、伯父が目を傘で刺されてしまったらしくうずくまっていました。おろおろする店員を横目に、10円玉を捜し、すぐに店の公衆電話から救急車を呼びました。その夜はあまりの惨劇に膝ががくがくしたのを覚えています。
その後伯父は一命を取り留めましたが、目から脳に至っていた大怪我でしたので、何とか一命は取り留めたものの、半身不随。過酷なリハビリの毎日が始まりました。
リハビリは苦痛の連続で、そのころ、祖母が知り合いから上田先生を紹介されました。上田先生は、体の悪い人を治しに歩いている、ケッタイナおっちゃんでした。
おっちゃんに「なんで痛いことするん?」と聞いたら、「痛いってことは神経があるってことなんや、痛くても神経を刺激していかへんかったら、何もできんようになるから、今、痛いけど辛抱せなあかん」「ゆうか、よう見ときや、こうやってここの指を使こうて、ここの骨を触るんや、そしたらここに血液とかが行くから、神経を作る栄養も運ばれるんやで」「あと、ここを触って、血圧と体温と脈を感じなあかんで、無理な時にやったら、あとが辛くなるからな・・・」など・・・事細かに教えていただきました。
最後には「ゆうか、お前の手は出来る手やから、しっかりこの手技を覚えなあかんで」と言って、翌月、上田先生は帰らぬ人となりましたが、療法を受けた人は今も口々に、上田先生の療法を絶賛しています。
私は大阪の堺という小さな町に生まれ育ちました。堺は楽市楽座があった由緒正しい商人の町。千利休の生誕の地でもあります。幼いころから日本舞踊や茶道を通し、手の美しさを学んできた私は、上田先生の手技のその美学を投影し、今の手技を作り上げました。無駄のない手技は、究極に人間の精神を癒し、美しく変化させます。
私の銀座のサロンでは多くのお客様がいらしてくださいます。しかし、私は一人・・・そこで後継を育てることの大切さを痛感し、また、骨気の市場が日本の薬事法や医師法、その他関連法規に則って行われ、安全に施術を受けられる環境を作りたいと考えてこの協会を発足させました。
痛みの残る強い手技でなくても骨は応えてくれる。そして、癒しのレベルが上がれば、人の体は劇的に変化することを私の開発した手技を通して体験していただきたい。
骨気を通して、お客様には美しさと健康を維持し、しなやかな毎日をご提供できるよう、そして、コルギニストには安全で効果的な手技により、より自由に骨気の啓蒙活動ができるよう、バックアップしてまいります。
遠藤ゆうか History
1975年 | 大阪の堺の美容一家に生まれる。 |
1980年 | 日本舞踊 花柳流に入門。 |
1991年 | 上田義隆師のもとで、骨に気を入れる痛い手技を学ぶ。骨の強化や脳の活性化に多くの結果をだし、若くして技術の皆伝を受ける。 |
1993年 | 美容師免許を取得。世界チャンピオンサロンに入社。その後サロンワークのみならず、スクールや美容業界の企業にてインストラクターや福祉美容に携わる |
1996年 | BIBIPORE企画室長・リゾームの取締役を経て、関西のファームに入社。戦略財務やコンサルティング・マーケティングを学ぶ |
2005年 | 立命館大学法学部で西園寺奨学金を得て、卒業。ロースクールへ進学、司法試験受験生の道を歩む。 |
2010年 | その後も優秀なセラピーを求め、国内外を放浪。 |
2010年 | 銀座で優手骨気(ソフトコルギ)をオープン。 |
2012年 | 第二店舗目に移転。年間受講者数全国第3位になる。 |
2013年 | コルギのセラピストをコルギニストと命名し、インターナショナルコルギニストアソシエーションを設立。日本では一般社団法人コルギニスト協会を設立。 |